徒然なるままにその日暮らし

なんか書いてます

「イニシエーション・ラブ」乾くるみ

 その夏、僕は彼女に出会い、恋に落ちた――

 若い男女の青春、恋愛物語と思いきや、最後から2行目で驚愕の真実が発覚する。

「東西ミステリーベスト100」(文藝春秋、2012年)の「東=国内」編第74位。

 

以下、ネタばれ注意。

 ミステリー作品とうたってあったので、冒頭部分の男女恋愛物語もそのうち謎めいてくるのだろうと耐えて読み進めていった。結論からいうと、最後まで恋愛物語だったが、最後から2行目でガツンと頭を殴られた。

 一人称視点「僕」で語られる、サイドAとサイドBとの二部構成。

 「僕」の名前は「鈴木夕樹」、「ゆうき」と読ませるが、カタカナの「タ」と同じ形から、恋人からは「タッくん」と呼ばれることになる。

 物語は、このタッくんと繭子との恋愛がメイン。サイドAは学生の「僕」と繭子の恋愛、サイドBは、繭子の住む街を離れ、遠距離恋愛をしている会社員「僕」の物語。

 純心に相手を求めあっていたはずが、距離が開き、別の女性の存在がちらつき始め、終わっていく一つの恋物語。出会った頃のときめき、相手の自分に対する思いをはかりかねて悶々とする心情、初めて体を重ねる時の戸惑いや悦び、そして綻び……心理描写が丁寧で、青春の恋愛物語として読める。

 サイドAから読んでいけばサイドBは就職後の「僕」と繭子との恋愛物語だと思うだろう。それが自然な流れだ。だが、実はサイドAとサイドBは同時の時間軸の物語、視点主である「僕」は別々の人間である。この驚愕の事実が知らされるのは最後から2行目。

 サイドBの「僕」が就職先で関係を持った女性に「辰雄」と呼びかけられる台詞。

 読者は、おや?と思うだろう。「僕」の名前は「夕樹」であるはずだ。「辰雄」とは誰だ? と同時に、謎が一気にとける。サイドAとサイドBの「僕」は別人であると。解答を得ると、ところどころで感じていたひっかかり(作者による伏線)もするりとほどけていく。

 あっぱれ、と言うしかない仕掛けだ。読者は、作者が落としていたパンくずを拾いに再び初めから物語を読むはめになる。

 しかけが判明したところで再び物語を読むと、同じ文章、同じ表現がまったく違った印象としてとらえられる。さすがとしか言いようのない文章力と技術である。プロだから、と言ったらそれまでだが、プロでもなかなか出来ることではないように思う。

 たとえば、サイドAの「僕」と繭子が初めて肉体関係を持つ場面。ここはわりにページをさいて細かい描写されている。若い二人の情熱と戸惑いがこまやかに描写されていて、ああ、そういう時があったと思う人も多いかと思うが、ネタばれした後に再度読むと、繭子の恐ろしさが際立つ場面となる。繭子は、男性経験がないと言っているが、実はサイドBの「僕」=「辰雄」と二股をかけているので、初めてだといっているのは芝居なのである。

 サイドBの「僕」が繭子と付き合い始めたばかりの頃を思い出し、初めてでうんぬんと回想する場面があるが、それも繭子に芝居を打たれた可能性がある。

 繭子はサイドBの「僕」の子供を妊娠、中絶するのだが、それも果たしてサイドBの「僕」の子供であるのかどうか怪しいものだ。小説に描かれているのは二人の男をもてあそんでいる繭子だが、二人どころか、三人、それ以上の可能性もある。繭子は「僕」たちと会う日を曜日で指定しているのだ。曜日ごとに会う男が違う可能性も捨てきれない。

 こうなると、微笑ましい若い男女の青春恋愛物語が一気に違う小説になる。最後から2行目に発せられるたった一行の台詞で。

アマゾンキンドルで出版した作品の売り上げ実績

アマゾンからメールが来ていた。

買い物をしたからだと放っておいたら、支払いの連絡メールだった。

カードで支払ったはずだがと思いながらメールを開くと、督促状だといったメールではなく、アマゾン側がこちらに支払いをしましたという連絡メールだった。

私はアマゾンキンドルで作品を販売しているのだが、それが売れたので支払いします、という連絡だ。

4通も届いていて、何事かと思ったら、売れた地域ごとに支払いが行われるらしく、日本を含む4か所で売れていたので、4通の連絡、支払いとなっていた。

売れていた場所は、日本は当然として(日本語書籍なので)、アメリカ、イギリス、そしてインドだった。

アメリカとイギリスはわかる。在住の邦人の方と思われる。インドも在住の邦人の方だろう。だた、ちょっと意外だった。

今や日本人は世界中に住んでいるのだなあと感慨深く思った。ひょっとしたら日本語を勉強したい外国の方かもしれないが。

私は個人的経験から、在外邦人が日本語に飢えている状況を身をもって知っている。それはそれはもう、痛烈に日本語が恋しいのだ。何なら日本食の成分表の日本語ですら嬉しいくらいだ。

インターネットで気軽に日本の現在の情報に触れられる環境が整っているとはいえ、日本に住んでいるようには日本語に触れられない。

小説程度なら電子書籍で入手できるが、小説にしても日本国内の販売に限ると言われてしまうと諦めざるを得ない。どうして日本国内の販売に限ってしまうのだろう。出版社のその辺の事情はわからないが、今や日本人は世界中で生活しているというのに。

日本人が日本にしか住んでいるわけではないこと、在外の日本人の日本語恋しさを知っているため、キンドルで販売する時には全世界で販売を選択した。

もし、今後、アマゾンキンドルで出版しようと考えている方がいらしたら、声を大にしていいたい。

販売は全世界で

日本語の書籍だから日本でしか売れないだろうなどと思わずに、迷わず世界を視野に入れていただきたい。

日本人は世界中、どこにでも住んでいる。日本の出版社が日本国内販売に限定するというのであれば、国外に住む日本人にむけて自分の作品を大いにアピールできる。

日本語で書かれた書籍だからといって日本人だけが読むわけでもない。

私自身も英語で書かれた書籍を読むのだから、日本語書籍を読む日本語が第一言語でない読者もいるはずだ。

世界は広い。

「慟哭」貫井徳郎

誘われたミスリーディングにまんまとはまってしまった。しかし、悪い気はしない。してやられたなあといったところ。「東西ミステリーベスト100」(文藝春秋、2012年)の「東=国内」編第93位。

【あらすじ】多発する幼女誘拐殺人事件の捜査は難航していた。犯人は警察をあざ笑うかのように「声明文」をマスコミに送りつける。捜査を担当する佐伯は、記者会見を開き、犯人を挑発するかのようにメッセージを発する。

以下、ネタばれあり。

事件の捜査にあたる佐伯刑事視点の部分と、犯人、松木視点による二部構成。

実はこの構成が曲者で、佐伯=松木なのだが、時間軸がずれている。このずれについては読んでいる時に気になりはするものの、せいぜい数か月程度だろうと勝手に解釈していた。実は大きな隔たりがあり、エンディングでふたつの時間軸はようやく交わる。そして明かされる佐伯が松木という衝撃の事実。

佐伯が追っていた事件、佐伯が松木となってから起こした事件。事件もふたつ存在する。

伏線は冒頭から忍ばされてあった。松木という人物の「胸に穴が開いている」という感覚の描写。これはタイトルの「慟哭」にもつながる。愛するものを失った時の感覚はまさに「胸に穴が開いた」ようで、その悲しみは「慟哭」としか言い表しようがない。

松木が娘を亡くしていることは早い時点で知らされる。彼は「慟哭」のあまり、娘の魂を取り戻す儀式のために同じ年頃の幼女を誘拐し続けていたというわけだった。

松木=佐伯の正体は、割と早い段階で示唆されている。松木が足しげく宗教団体の人々に、「どこかで見たような」と言われているのだ。彼らは松木が佐伯だった時代、彼が記者会見でさらした顔を見て知っているのだ。教団幹部に「娘を亡くしていますね」と言われて松木本人は驚いているが、何のことはない、佐伯が娘を失ったことは周知の事実なのだ。

終盤、担当刑事の娘を誘拐しようとしている部分は、犯人が佐伯の娘を誘拐しているのではと読めるように書かれており、読者は、ハラハラさせられる。実は、佐伯の娘はすでに亡くなっており、佐伯だった過去の時間と松木となった現代の時間とが誘拐未遂事件の点でようやく交差する。

先に起きた幼女誘拐殺人事件を捜査中に娘を失った佐伯が、離婚して松木姓となり、娘の魂をこの世に取り戻そうと、次々と娘と同じ年の幼女を誘拐する。魂を肉体に戻すことなど不可能で、結果、幼女たちは命を落とすだけとなり、娘の魂を取り戻そうと何度でも儀式を試みる松木の行動は、連続殺人を犯しているとなる。これが種明かしだ。

なんと!という驚きをもって迎えるエンディングだが、嫌な気はしない。こじつけ感もない。丁寧に練られたミステリーは、謎解きがされた時、すっきり爽快感だけが残るものだ。

ショートショート「お客様相談室」投稿しました。

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クレームが多すぎて電話取るのが嫌になったっけ。

novel.daysneo.com

「禁じられた楽園」恩田陸

ホラーは表現者にとって非常に難しいジャンル。人によって恐怖を感じる対象は異なるからだ。私は虫は平気だが、苦手だ、恐怖を覚えるという人は結構多い。フォビアの域になるが、リンゴのような丸い果実に恐怖を覚える人もいるそうだ。ちなみに、幽霊、妖怪の類よりも人間が一番怖くて恐ろしい存在だと私は思っている。

【あらすじ】平口捷は、同級生で天才美術家と名高い烏山響一に彼の郷里にある美術館へと招待される。美術館を訪れた捷を襲ったのはめくるめく恐怖だった……。

「禁じられた楽園」で描かれる恐怖は、お化け屋敷を歩いているような不気味さだ。それこそがまさに著者が表現しようとしたものである。お化け屋敷を歩いている時の何とも言えない不気味さ、先に何が出てくるのかわからない恐怖、しかし、先へ進んでみたいという誘惑……。

お化け屋敷を行く人間の心理描写が優れていることは言わずもがな、お化け屋敷そのものの描写が秀逸。色の描写にはじまり、音、感触、臭い、と、五感に訴えかけてくる。文字を追うだけで、自分がまるで物語の人物と同じ場所にいて、同じ物を見、聞き、においを嗅いでいるような気分になる。

物語の人物たちが歩くお化け屋敷は、読者側にとっては本作そのものなのである。怖い、だが、次のページに何が書かれているのか、ページをめくる手はとまらない。物語の人物たち同様、読者も先に進む。

作中で言及されているように、まるで江戸川乱歩の「パノラマ島綺譚」のような世界が繰り広げられる。山間にかけられたアクリルの橋を歩いて見下ろす下界、ゴム製のカーテンで仕切られた迷路、ひたすらに上下する階段……「展示物」が次々と出現するさまはエドガー・アラン・ポーの「赤死病の仮面」を彷彿とさせるし、腸内を行くかのようなゴム製カーテンの迷路の部屋は江戸川乱歩の「赤い部屋」のようだ。

とにかくも、ぞわぞわとするのだ。何とも言われぬ恐怖を言語化し、その言語を読むことによって脳内で恐怖が再現される。読むお化け屋敷である。

「疑惑」松本清張

映画版を先に観て、主演のお二方(桃井かおり岩下志麻、敬称略)の演技に釘付けになった。映画は「プラス松竹」チャンネルにて配信中とのこと、ぜひ、観ていただきたい。

原作は、松本清張による短編「疑惑」(旧題「昇る足音」)。なお、映画化にあたっては松本清張本人が脚色に参加している。

実際に起きた保険金事件にヒントを得たストーリー。年の離れた夫を保険金目的に殺害したのではという「疑惑」をかけられた球磨子。無実を訴えるものの、暴行事件や恐喝を行なってきた前科が彼女をかぎりなく黒へと近づけていく。

以下、ネタばれあり。

球磨子を「毒婦」に仕立て上げたのは、事件の連載記事を書いた新聞記者、秋谷茂一。秋谷は球磨子の犯行を確信し、社会正義を掲げて彼女の悪行の数々を新聞という公共のメディアに書きたてる。暴行、恐喝をしてきた女だ、殺人も厭わないだろう、と。今も昔も、メディアのやっていることが変わっていない。

球磨子の前歴を知らされる読者もまた、彼女が保険金目当てに殺人を行っただろうという疑念を抱かされる。無実だとの主張も罪を逃れるためだろう、暴力をふるうような人間だ、嘘をつくもの平気なはずだ、と。今なら、SNSやネットで大騒ぎ、誹謗中傷の嵐が吹き荒れているだろう。

球磨子の国選弁護人に選ばれた佐原貞吉は球磨子の証言、物的証拠から彼女の夫は彼女を道連れにしての自殺だったと結論づける。球磨子は嘘は言っていなかったし、夫の自殺をほのめかす物証も最初から提示されていた。読者は、あっと思わされる。ここまではミステリーの常套である。

この先が趣を変えて、ホラーになる。いや、ホラー的な展開は伏線として序盤から張られてはいるのだが。

球磨子の無罪放免が決まりそうになると、新聞記者、秋谷は、球磨子が仲間をつれてお礼参りと称して自分や家族に暴力をふるうのではないかと恐れるようになる。なにしろ、彼女を毒婦に仕立て上げ、犯してもいない殺人事件の犯人にしようとしていた張本人なのだ。殺されるかもしれない恐怖心から、秋谷は球磨子の無罪を証明しようとしている弁護士佐原貞吉を殺害しようと試みる。げに恐ろしきは人間、自己保身の醜さよ。

映画版の話をすると、映画では国選弁護人、佐原貞吉は女性に変えられている。映画版では、球磨子と彼女の弁護にあたる女性という二人の女性の対比に焦点がしぼられていたように記憶している。人間臭い球磨子に対して、スマートさを代表するかのような東大法学部卒の弁護士。依頼人と弁護士が対立しながら、どう「疑惑」をはらしていくのか。苦々しく思う相手の無罪を、職務上、道義上、証明しなくてはならない。映画版はサスペンス味が強調されていたように覚えている。