徒然なるままにその日暮らし

なんか書いてます

「Another」綾辻行人

「何かいる」――この気持ち悪い感覚をベースにミステリー風味で仕上げた学園ホラー。主人公「榊原恒一」の一人称で語られる。かなりのボリュームがあり、前半はホラー要素が強めで、後半はミステリー要素が強くなる。一粒で二度おいしい的な作品。

 

【あらすじ】

体を壊した僕(=榊原恒一)は、母の生まれ故郷の「夜見山」の中学に転校する。同じクラスには、入院中にみかけた眼帯の少女、見崎鳴がいた。しかし、他のクラスメートたちには彼女が見えていないようで……

*以下、ネタばれを含みます。

物語の前半は、入院先で見かけた美少女「見崎鳴」は存在しているのか、いないのかをめぐるストーリーが展開する。クラスメートたちにはどうやらその存在を認識されていない様子の見崎鳴。主人公には確かに存在するように見えているのだが、著者の巧みな叙述により、読者の方もはたして彼女は人間なのか、それとも人でないもので、主人公にだけ見えているものなのかと疑問を抱き、ページを繰る手がとまらない。何やら主人公には明かされていない秘密があり、主人公同様、はやく教えてくれ、知りたいという気持ちに駆られる。

物語の後半には、見崎鳴の正体やクラスが抱えている秘密も徐々に明かされていく。見崎鳴は実在しているが、実在していないものと扱われている。なぜ、そんなことをするのか。ここからミステリー要素が強まってくる。

クラスに一人、この世のものならざる者が入り込むと、毎月死者が出る。その呪いを回避するために、誰かを存在しないものとして扱おう、それがクラスの取り決めだった。そしてその存在しないものとして扱われることになった生徒が見崎鳴だった。第一の謎、見崎鳴は実在するのかが解かれ、何故実在しないもののように扱われるのかという第二の謎も同時に解かれる。

第二の謎が解かれたところで、実は呪い封じのために見崎鳴を「いないもの」として扱うことを決めた以前にすでに死者が出ていることが明かされる。「いないもの」をつくりだすことで呪いを回避できるはずだったのに何故呪いは続いているのか。第三の謎が提示される。この後、呪いを封じこめる方法があること、呪いを封じるには紛れ込んできた死者を特定し、死の世界へと返さなくてはならないこと、ではどうやってその死者を特定するのかなどといった事柄が展開されていく。

死者の特定方法がオカルトチックではあるとはいえ、その正体が判明した時には「あっ」と声をあげそうになった。この感覚はミステリーで犯人の正体がわかった時と同じだ。と同時に、作者による丁寧な伏線の張り方、まるで美しい蜘蛛の巣をみているかのように感嘆せざるを得ない。参りました。

「天使の囀り」貴志祐介

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上記パートを目にして気分が悪くなった方にはお勧めしない作品。ミミズだとかムカデ、蛇といった長くてニョロリとした生物もしくは形状が苦手な方、集合体恐怖症の方も無理だろう。虫が苦手な方も回れ右した方がいい。

「怖い物見たさ」で読んでみようというのなら、それなりの覚悟をもって挑んでいただきたい。

【あらすじ】

新聞社主催のアマゾン調査に参加したメンバーが帰国後、次々と異様な死を遂げていった。死の直前、彼らは人格に変容をきたしており、死を甘んじて受け入れるようにして命を落としていた。

*以下、ネタばれを含みます。

「虫の居所が悪い」という慣用句がある。機嫌が悪い状態を言うもので、人間の体の中にいる虫の機嫌が悪いので宿主の人間の機嫌が悪くなるという考えだ。

「腹の虫がおさまらない」といった表現もあり、昔の人は人間の体に虫のようなものがいて、それらが人間になんらかの作用を及ぼしていると考えていたらしい。

実際、腸内細菌は腸内にいる虫のようなものだし、ウィルスもいて、これもまあ、虫のようなものだ。考えたくないかもしれないが、顔に棲むダニもいる。

こう書いてくると気分が悪くなってくるだろう。自分の体の中に別の生命体がいると考えるだけでむず痒くなるし、彼らが自分の体に害をなすとしたらそれは恐怖でしかない。

この生理的な嫌悪感だとか恐怖心をかきたててくるのが本作品。

アマゾン調査隊の死は、かの地で感染してしまった新種の線虫が原因だった。この線虫は宿主の恐怖心を快楽に変えるため、寄生されてしまったメンバーたちは自分が恐怖を覚える対象に自ら進んでいってしまうようになる。死に恐怖を覚える者は、逆に死に近い環境で最も強い快楽を覚えるといった具合に。この構造は麻薬の作用に似ている。

そもそも恐怖心というものは自分を傷つけるものから遠ざかろうとするための防御システムなのだから、その恐怖心を快楽に変化させられてしまうというのは、それこそ本当に恐怖でしかない。もうこの辺でぞぞっと背筋が寒くなるのである。

恐怖を快楽へと変えてしまう存在が生き物であること、その生き物が自分の体内にひそめるほど小さいとなると恐怖心は更に増す。目に見える物からは逃げられるが、目に見えないほど小さい物はどう逃げたらいいのかとパニックになる。逃げようがないじゃないかとあきらめてしまいたくなる。目に見えないほど小さなものが化学物質の類ならさほど恐怖心はわかないが、生物となるとパニックは最高潮に達する。内側から蝕まれていく恐怖というものだ。ほらもう怖い。

中盤あたりで線虫が登場してからはずっとぞぞぞとしながらページをめくっていた。クライマックス場面での寄生された人間たちの末路の姿なんぞ、筆者のあまりの描写力に本を燃やそうかと思うくらい気分が悪くなった。

気持ち悪いだとか怖いだとか言い並べたが、それはホラー作品として成功している証である。

救いがあるとすれば、エンディングだろうか。

脳に侵入した線虫について作者が「縫い目」と描写している箇所がある。「縫い目」と読んで、私は破れたものを縫い合わせているイメージを抱いた。破れたもの、壊れてしまったものを縫い合わせて修復している、そういう良いイメージだった。

生死にかかわる恐怖心を快楽に変えてしまうのはいかがなものかと思うが、もしこの作用がトラウマのような精神的な傷を修復する方に作用してくれたならと思ってしまったのだ。同じ考えを抱いた人物が蜷川教授であったのだろう。おや? 私もメサイヤ願望が??

それはさておき、エンディングでは、死に臨んでいる少年を救うべく、線虫が少年に与えられる。死への恐怖はなくなり、少年は線虫が聞かせる「天使の囀り」の幻聴を聞きながら死をむかえる。

線虫を与えた行為について善し悪しの議論はあるだろう。しかし、善悪は人間が作り出した人工物で時代と共に移り変わっていく。かつて善とされていたものは悪になりうるし、逆もまたしかり。

救世主ぶるわけではないが、目の前に苦しんでいる人がいたら、助けたいと思ってしまうのではないだろうか。まして自分が助ける手段をもっているとしたら。それが人間であるように思う。天使ではなく。

年と共に読めなくなった本

若い頃はどんな内容の本でも読めた(偏読はひどかったにしろ)のに、年を取ると共にどうしても受け付けられない本というものが出来てしまった。

どんなに出来が悪かろうと、最後の1ページまでは読むが信条なのだが、最近は途中で投げ出す本が多くなってきてしまった。

(最後までとりあえず読むという心持ちでいながら読めなかったのが前の記事の2作品)

投げ出す本には共通点があり、どの作品も精神的な痛みをテーマとしていた。

年を取っていろいろな経験を積んでしまったがため、心をいためつけられた経験があり、そういった内容の本を読むとフラッシュバックしてしまっているようなのだ。

実際はその手前で投げ出しているので、パニックになるようなフラッシュバックまではいっていないが。

そういう本を出版するなとはいわない。むしろ必要だとも思う。こうこう、こういう痛みがあるのだとひろく世界に知らせるためにも。

痛みを経験した本人が記してもいいし、言語化能力に長けた第三者が記してもいい。どちらでも、結果として、世界が痛みを知り、問題部分を改めていこうという方向にむかっていくのであれば。

ただ、私自身はそういうヒリリとした内容の本は読めなくなってしまった。

今は、お気楽で能天気な内容の本が読みたいと思う。

年寄りが時代劇(水戸黄門とか大岡越前とか)やら笑点やらが好きな理由が、自分も年を取ってきてわかってきた。

勧善懲悪のわかりやすさだとか、笑いだとかが欲しいのである。

苦だとか辛は、人生で散々味わってきたがために。

どうしても読了できない小説

どうしても読み終えることのできない小説がある。

何度挑戦しても、途中で挫折してしまうのだ。

長いから、ではない。

学生時代、「ユリシーズ」と「失われた時を求めて」だけは読めないとぼやいていた教授がいたっけか。

上記の二作品は確かに長い。

私がどうしても読み進められない小説はどちらも三島由紀夫の作品。

「禁色」と「鏡子の家」である。

三島由紀夫にはまって全作品(小説のみ)読んでやると息巻いて、実際、この二作品以外は読んだ。本棚の一角が書店の新潮文庫コーナーのようになっていて、全作品揃っている。もちろん「禁色」と「鏡子の家」も本棚にある。

しかし、この二作品のみ、最後まで読んでいない。

何度も読もうと努力はしたのだが、どうしてだか、どうしても読み終えることができない。途中で挫折してしまう。

そこそこの長編だが、「ユリシーズ」だとか「失われた時を求めて」だとか「大菩薩峠」に比べたら大した量ではない。だから、長さは問題ではない。

中身に興味をひかれないのだろうか。だが、なにしろ読み通していないので、どんな内容なのかがわからない。

わからないので、あらすじだけでもと確認してみた。

なるほど。ふむふむ。

やはり食指が動かない。

どんな作家のどんな作品でも一応は最後まで読んでみよう、そのうえでその後、その作家の作品を追うか、追わないかを判断しようと思っているのだが。

大好きな三島作品でどうしてもこの二作品だけが読み終えることができない。

くだらない、笑い飛ばせ

長い間、人間をやっているといろいろなことがある。

一寸先は闇、突然谷底に突き落とされたことも多々ある。

あまりにもそういう経験が多すぎて、何事もなく一日が過ごせるとほっとするようになった。そういう一日を重ねて一か月、一年と過ごせると、ありがたいと思う。

谷底に突き落とされた時、私は、24時間は思い切り泣き、喚き、罵り、恨みつらみを叫び続ける。何もしない。どうせ不安だとか恐怖で心が凝り固まって体が動かないのでどのみち何もできない。

食事だけはとる。24時間後、すぐに行動できるようにだ。

笑うといい。

笑えるわけがない、と思うだろう。

くだらないことで笑ってしまうといい。お笑い芸人の力を借りるなりして。

くだらない、それ以下には下らない。

「星を継ぐもの」ジェイムズ・P・ホーガン

ミステリーの次によく読むジャンルがSF、サイエンスフィクション。「星を継ぐもの」では、ミステリーとSFが同時に楽しめる。タイトルに「星」とある通り、宇宙を舞台とした作品。

本作品が発表された当時(1980年)に知られていた事実を下敷きに、謎解きにはロマンあふれる虚を織り交ぜ、「宇宙人」の在り方を通して人類への警鐘を鳴らす。「東西ミステリーベスト100」(文藝春秋、2012年)の「西=国外」編第26位。

【あらすじ】

月面調査隊の一行は、宇宙服に身を包んだ死体を発見する。しかし、死体はどの月面基地に所属する人物でもなく、その上、死亡したと思われる時期は5万年前だった。

*以下、ネタばれを含みます。

ミステリー作品としての謎は、第一に「チャーリー」と名付けられた死体の正体、第二にはなぜ月面で死んでいたのかの二点にしぼられる。

第一の謎、「チャーリー」の正体は物語の早い段階で「人間」=「地球人」と明かされる。この事実が次の謎をよびこむ。チャーリーが地球人だとすれば、5万年前と推定される死亡時期はどういうことなのか。5万年前、人類は月に到達していなかった。人類がいるはずのない5万年前の月でなぜチャーリーは死んでいたのか。第二の謎が展開していく。

チャーリーを地球人だと断定するプロセスはきちんと科学的に述べられている。死亡した時期の特定方法、炭素を用いた測定法も実際に用いられている方法だ。とんでもサイエンスでむりやりチャーリーを地球人と断定しているわけではない。だからこそ、科学の知識を持つ読者は作中の科学者同様、頭を抱えてしまうことになる。なぜ地球人チャーリーが5万年も前に月で死んだのか。

あらゆる分野のトップたちが集結し、謎に挑む。チャーリーの残した日記を解読するには言語学者の頭脳が必要となり、チャーリーの体を調べる生物学者、チャーリーが発見された場所を調査する地質学者。お勉強の科学は苦手だとしても、こうして謎解きの一環として科学知識を読み込んでいくのは楽しい。

日記の一部がカレンダーではないかというところから、文字や数字の解読が進み、チャーリーのいた場所が判明していくところは謎解きとして面白かった。カレンダーという日常生活の何気ない物が、そういえば月の天体活動に基づいているものだったと今更ながらに思い知らされた。身近なところに科学はひそんでいる。

チャーリーがなぜ月面で死んでいたのかという謎を残しつつ、物語は進む。月の表裏で様相が異なる(事実)理由は、核戦争による爆発物の堆積(虚)、木星と火星に存在する小惑星帯は(事実)、かつて存在していた惑星が月面からの兵器によって破壊された姿(虚)であり、チャーリーはその惑星ミネルヴァの出身である、などなど、事実と虚とが織りまぜになっていく。小惑星帯がかつて惑星だったかもしれない、その惑星に生命がいたかもしれないと考えるとワクワクしてしまう。もちろん、そんな事実は今のところ確認されていないし、この部分はあくまでもフィクションである。

調査は進み、やがてチャーリーはかつて存在していた惑星ミネルヴァ出身であると判明する。ミネルヴァには先住生命体が存在していたが、二酸化炭素の濃度が濃くなる危機的な状況を打開するため、彼らは地球の生物を宇宙船に乗せてミネルヴァまで運んできた。ミネルヴァに連れて来られた人類の祖先から進化したからチャーリーは地球人と同じ形態なのである。彼らは高度な文明をもち、地球上人類よりも早い段階で宇宙空間を制していた。だから、チャーリーは月に行くことが出来、そこで死んだのだ。第二の謎が一応、解決の日の目をみる。

一応と書いたのは、作中人物がどこかもやもやした物を抱えており、ここまで読んできた読者も同じくもやもやしてしまうからだ。小惑星帯から地球の月まで移動できるチャーリーたちがなぜ月で留まっていたのか。住んでいた惑星を失った以上、チャーリーたちは祖先のいた地球を目指しただろう。月まで来ることができたのだ、地球はすぐ目の前だったはずだ。第二の謎、チャーリーはなぜ月で死んでいたのかが再び頭をもたげる。

謎は、作中人物が宇宙空間に出て解決をみる。事件は現場へ足をむけてみないと解決できないを地でいくストーリー展開だ。サイエンスフィクションでありながら、ミステリーとしても王道の展開をみせる。

実は地球の月はかつてミネルヴァの月であった、というのが謎解きである。「あっ」と思う人の方が圧倒的多数かもしれない。しかし、実は、月がミネヴァの月であることはところどころで示唆されている。チャーリーは、月からミネルヴァの最期を目撃している。かつてミネルヴァの衛星であった月は、ミネルヴァの崩壊の衝撃で地球側へと飛ばされた。そこで地球の月となった、というわけである。月の自転はかつては速かった(事実)理由は、月はかつてミネルヴァの衛星であったから(虚)。ここでも虚実のないまぜが起こる。

チャーリーは地球で発生した生命体を祖先とし、ミネルヴァで進化した。だから地球人と同じ形態を持つ。彼らは宇宙を航行できるほどの文明を誇っていた。惑星ミネルヴァは崩壊し、その衝撃でミネルヴァの衛星であった月は地球側へと吹き飛ばされ、月にいたチャーリーは死体となって発見された。

美しいエンディングをむかえたところで、チャーリーは何者かという第一の謎が再び投げ出される。何をいまさら、地球人だと説明されているじゃないかという声が聞こえてきそうだし、実際、作中の人物が同じようなことを口にしている。

ここで驚愕の(物語としての)事実が明かされる。はるか昔、地球からミネルヴァに連れてこられ、そこで進化したチャーリーたちは、ミネルヴァ崩壊の衝撃で地球側に引き寄せられた月から地球にわたった。現在の地球人は実はチャーリーたちの子孫である。

約5万年前に発生したと考えられているネアンデルタール人の絶滅理由(事実)は、ミネルヴァ系地球人との対立(虚)である。なるほど、だからチャーリーは5万年前に死んだという設定なのかと、作者の作家としての技量に脱帽である。

すべての謎、伏線を回収し、ミステリーとしてもサイエンスフィクションとしても非常に美しいランディングを果たして物語は幕を下ろす。

こじつけもなく、とんでもサイエンスもない。物語として矛盾がないままエンディングをむかえるため、読後感は非常にすっきりしている。

ミステリーとしてサイエンスフィクションとして傑作であると同時に、本作は人類に対し、強烈な警鐘を鳴らしている。

惑星ミネルヴァは二酸化炭素の濃度上昇により危機に瀕したとある。現在の地球がまさに同じ状況にある。本作が発表されたのは1980年。現在、2024年。ちなみに作中の設定は2028年。

作者は作中、ミネルヴァ系地球人の攻撃性を指摘している。対立する二つの勢力は東西冷戦時代(1945-1989年)を彷彿とさせる。しつこいが、作品の発表は1980年、冷戦中のことだ。作者には東西対立の構造が頭にあっただろうと思う。

ミネルヴァ系地球人同士の対立は核戦争をもたらした。冷戦は一応終結したが、現在、地球上ではあらゆる対立が進行している。核兵器を使うぞなどという言葉も耳にする。惑星を破壊したミネルヴァ系地球人の姿がそのまま現代人類に重なる。

核戦争しかり、気候変動しかり、2024年の今読むと、ホラー作品のように背中が寒くなる。44年前に警鐘が鳴らされていたにも関わらず、我々は争い続け、地球を蝕み続けている。

ミステリーとしてサイエンスフィクションとして優れた作品であることは間違いない。だが、それだけにとどまらない。物語としては非常に口あたりがいいが、実は強烈な刺激、苦味を内包している。

最後に一部を引用する。

ダンチェッカー(生物学者)が現代人類はミネルヴァ系の子孫であると述べ、彼らがいかにして新しい環境、地球で生き延びてきたかを語った後の場面である。

「……われわれ人類は今、押しも押されぬ太陽系の支配者として、5万年前のルナリアンと同じように恒星間空間のとばくちに立っている……恒星宇宙はわれわれが祖先から受け継ぐべき遺産なのだ。ならば言ってわれわれの正当な遺産を要求しようではないか。われわれの伝統には、敗北の概念はない。今日は恒星を、明日は銀河系外星雲を。宇宙のいかなる力も、われわれを止めることはできないのだ」ー「星を継ぐもの」ジェイムズ・P・ホーガン、池 央耿訳 創元推理文庫

「祖先から受け継ぐべき遺産」が「星を継ぐもの」というタイトル回収となる。

「太陽系の支配者」として「敗北の概念はない」とはずいぶん勇ましいが、なんという驕り高ぶりなのだろう。

「宇宙のいかなる力も、われわれを止めることはできないのだ」とあるが、作中、惑星ミネルヴァは、誰の何の力にも止められなかったチャーリーたちルナリアン自身の力によって破壊された。受け継いだ遺産=地球がミネルヴァのように破壊されないことを強く祈るばかりだ。