徒然なるままにその日暮らし

なんか書いてます

また一つ、年を取る

新しい年をむかえ、また一つ、年を取った。

実際の誕生日は先ではあるが。

誕生日まで生きていられるという保証はないので、今のうちに年を取っておく。

病気ではないが、健康というわけでもない。病気でなくても、事件事故もろもろ、人生一寸先は闇、生はあっという間に失われる。

悲観的なわけではなく、明日を頼って今日をおろそかにはしたくないという気持ちでいる。

一日一日を薄氷の上を行くがごとくに生きてきたせいかもしれない。

明日というのは当てにならない。

明日というのは誰にでも訪れるものではない。

 

先日、久しぶりに両親に会った。

年老いていく両親を目の当たりにして切なくなった、と知人に告げた。

するとその知人は「年老いていける、それはいいことではないか」と返してきた。

なるほど、日々を重ねていけない命もあるものなと思ったのだった。

 

明日を考えられる人は幸せだ。

「打ちのめされるようなすごい小説」

買った記憶がないので、おそらく書店で働いていた時にもらったサンプル本だったのだろう。

この本が私の読書の裾野を十倍にもひろげた。

我ながらこの本を手にした自分を褒めたい。

タイトルに偽りなし。

全50作の小説が紹介されているが、ほぼすべての作品に「打ちのめされる」。

ほぼというのは、現在では入手困難、まだ読了していない作品が片手の数ほどあるため、すべてに目を通していないからだ。しかし、これまで読んできた四十数作品、すべてにおいて「打ちのめされた」から、残りもまた「打ちのめされる」と確信している。

この書籍に出会うまでの私は偏読がひどく、近現代の小説ばかりを読んでいた。夏目漱石芥川龍之介太宰治……日本文学定番中の定番ばかりである。私が好きで読んでいた作家の作品はごくわずかしか紹介されておらず、恥ずかしながら後はほぼ知らない作家の知らない作品ばかりだった。

本作は、昭和初期から戦後までを数年ごとに5つに区分し、その時代に活躍した作家の作品をピックアップしている。私が好んで読んでいた作家たちは戦前に集中していたので、他の作家、作品を知らないのは当然だった。

取り上げられた小説は、一部を抜粋の上、著者の解説が書き連ねられてある。この著者の解説が秀逸なのである。下手すると単行本の1ページにすら満たない分量で作品の魅力を余すところなく伝えている。どの作品だったか覚えていないが、パラパラとページをめくって気になった作品を読んだ後に打ちのめされたポイントがまさに著者が解説で指摘したポイントだった。

この著者の紹介する本ならば間違いない、この本に掲載されている全50作品を読んでやろうではないかと、ここから裾野がひろがっていった。自分で好きな作品を読んでいくことも楽しいが、自分とは好みや考え、感覚が違う人間が紹介する本を読んでいくことも楽しい。この本はまさにそういう楽しみを教えてくれた。

損はしたくないと誰しもが思う。お金を出して時間をかけて読んだ本が面白くないと損した気になる。だが、この本に紹介されている全作品はお金と時間をかける価値のあるものばかりだ。もう一度言うが、本当に「打ちのめされる」。

「打ちのめされる」小説をしぼりこんだ著者の読書量にも打ちのめされる。確実に打ちのめすだろう作品をピックアップするためには膨大な数の小説を読まなくてはならなかったはずだろう。著者には感謝してもしつくせない。

「書きたい人のためのミステリ入門」

いつか、本格的な長編のミステリを書きたいという野望を抱いている。

横溝正史江戸川乱歩の世界が好きなので、ミステリと日本独特のどろりとしたコミュニティで起こる殺人事件を書いてみたい。

まずは形から入ろうと、「書きたい人のためのミステリ入門」を手に取った。

著者は編集者として、「新潮ミステリ―大賞」「新潮エンターテインメント大賞」といった新人賞の下読みをしてきた経験から、ミステリを書きたいという人にむけて「心得」、ミステリの「お約束」を紹介している。

編集者というだけあって、情報がわかりやすくまとめられていて、読みやすい。ミステリ入門とうたってはいるが、「書く」という作業に関する心得は他ジャンルのフィクションを書く時にも役に立つと思う。

「書き過ぎてはいけない」というアドバイスは本当にその通りで、私も気をつけるようになった。書く方は楽しいが、冗長な文章を読まされる方はたまったものではない。そして読む方は書く方が心血注いだ文章にそれほど注意して読んでいない。私自身が読者となった時に印象的な文章やセリフには一作品につき、多くて二、三ほどしか出会わない。

そういうものだなと思ってからは、書く力がいい具合に抜けたように思う。細かく書き過ぎるよりは物語の構成、バランスに力を注いだ方がいい。だから「書き過ぎるな」となり、推敲と改稿に時間をかけよ、という著者のアドバイスとなるのだと思った。全部つながっている。

「書きたい」とあるが、著者自身も述べているように、ミステリのお約束を知ることにより、読む時にそれまでとは違った角度でミステリ作品に向き合えるようになる。そういう意味でも、読む専の人にも面白い内容だ。

巻末には本書で取り上げられた作品の一覧が掲載されている。それらを後追いで読んでいくのもまた楽しい。

「日本語のレトリック-文章表現の技法」

タイトルに惹かれて手に取った本。

内容はタイトル通り、レトリックについて。

レトリックの種類、文例が30紹介されている。気になるレトリックを目次から拾い読みするもよし。巻末には本書で紹介されたレトリック30種類の簡単な説明がまとめられている。

岩波ジュニア新書とあって、読者対象は中学、高校生ぐらいだろうか。

とっつきにくい文章表現の世界を例文をまじえて易しく解説している。

これくらいがちょうどいい。あんまり専門的すぎると頭が痛くなる。

 

気になるレトリックを目次から拾い読みできると書いたが、ぜひ「はじめに」には目を通してほしい。「はじめに」を読んでおくことで、「レトリックを文章に生かす」という章の内容が理解できる。まるでマジックの種明かし、本書で紹介されたレトリックの数々が「はじめに」にちりばめられていたことが明かされる。まさに「レトリックを文章に生か」した例に最後に出会うのだ。

 

読後に自分の文章に学んだ技法を生かせるかどうかは……。努力はします。意識は……しないと思う。頭の隅に置いてはおくだろうけども、無理にこの技法を、とはならないだろう。文章は(種類にもよるが)、私は楽しく書きたい。

 

さて、こういった参考書?的な本を読むもうひとつの楽しみ。

例としてとりあげられた文章を含む作品を後追いで読むこと。

読んだことのある作品は今一度、レトリックに注目して読んでみたいと思ったし、読んだことのない作品は読みたいと思った。こうして私の読書の裾野がひろがっていく。これが本を読むこと、読書の楽しみ。

占いのコトバ

2023年も明けてはや一か月が経とうとしている。

この様子では2023年もあっという間に過ぎてしまいそうだ。

 

新しい年の始まりの月ということで、どんな年になるだろうかと考える。

どんな年に「なるだろうか」と考えている時点で受け身であって、「こんな年にする」と目標をもつべきだとは思うのだが。

 

私のように「どんな年になるだろうか」と受け身で考える人間につけいってくるものが占いだ。

 

正月にひくおみくじしかり。

 

自分の努力以外の風向きがどうにも気になってしまう。

 

いいことだけを信じていればいいが、踊らされるようだと問題だ。

 

踊ってみるのもおもしろいかもしれないが。

 

と、思い、かたっぱしから占い系の読み物に目を通してみた。

 

これが意外に面白い発見があった。

 

占いの文章には大きく分けて二通りの書き方があった。

 

一つは能天気なほどにポジティブな内容。正月早々、今年は悪い運勢です、とはおめでたくないからかもしれないが。

 

もう一つが、「これをすれば運気上がる」という書き方をしているもの(しないと悪い運気という書き方もバリエーションとしてある)。「しなかったから運気が上がらなかったのだ」という予防線を張っている。この手のものは、当たらなかった時のための言い訳がそこここにちりばめられている。この巧妙に隠された言い訳を探すのが楽しくて、ついつい様々な占いの文章を読んでしまった。

 

占い師と物書きは意外と共通点があるのかもしれない。

どちらも創作。

あたるも八卦、あたらぬも八卦

信じるか信じないかは、あなた次第。

桜の花びら10トンと鉄のかたまり10トン、どちらで人は死ぬか

答え。どちらでも死にます。

それはそうだろう。10トンもの重さのものがのしかかってきたら、人の体なんてひとたまりもない。

桜の花びらの10トンで死ぬというイメージは抱きにくいだろうが、死ぬには死ぬ。

という点に着想を得て書いた作品が「庚申夜話」の第2話「一夜桜」。(実質、第1話)。

 

「花びら」という言葉には「軽い」というイメージがあるため、そして実際、一枚一枚の花弁は軽いため、死をもたらす重さが想像しにくい。たとえ10トンと書いてあってもだ。

 

ここ何年かでようやく心の健康問題、メンタルヘルスに注目が集まってきた。とはいえ、まだまだ理解されてはいない。

 

何せ、心は目に見えない。体が不具合をきたしてようやく心が病んでいると気付く。結局、体という目に見える部分での不調から心の病を知らざるを得ない。本来なら、心だけが病んでいる状態で発見、治療していかなければならないところ。

 

繰り返すが、何しろ目に見えないので、心の不調にはなかなか気づけない。自分自身でも気づけないのだから、医者といった他人に気づけるはずもない。そもそも、自分で気づいていなかったら医者に診てもらおうとはならないので、医者が気づけようはずもない。患者は目の前にいないのだから。

 

ようやくと注目されてきた心の問題だが、まだまだ無理解の壁は高い。例をあげると、心だけが病んでいて体にはまだ不調をきたしていない場合だ。体に影響が出てくるようではだいぶ症状が進んでしまって手遅れになってしまうのだが、そうなるまで自分も見て見ぬふりをするし、自分自身がそうなのだから、他人は何をかいわんやである。体が動くなら異常なしとみなすし、弱音を吐こうものなら、気合をいれろと鞭うたれる。そうやって心は壊れ、体が壊れていく。

 

心も傷むし、痛み、壊れる。心の健康が体ほど大事にされないのはしつこいくらい繰り返すが目に見えないからだ。目に見えないものがどう壊れるというのか。花びらと同じである。

 

花びらは軽い、だから花びらでは死なない。心は見えないから存在しない、存在しないものが壊れるものか。そういう考えはすべて思い込みだ。

 

心もさんざん傷めつけられたら人は死ぬのである。

 

コロンブスの卵の時代は終わった

「既存の枠組みにとらわれない考え方で問題解決に臨んだ経験を教えてください」

 

面接で問われた質問。

 

英語でいうところの「 outside the box」。

 

ない。

 

正直にそう答えた。

当然ながら、落ちた。

 

「既存の枠組みにとらわれない」人たちと一緒に仕事をしたことはある。

この手の人たちの頭はきっと四次元ポケット内にあるんだろう。常人には思いもつかない考えを思いつく。

 

一方で、違う意味合いでの「枠組みにとらわれない」人たちとも一緒に働いた。

こちらは、枠組みを破壊することで「枠組みにとらわれない」種類の人たちだった。

破壊するのは枠組みだけにとどまらない。社員の心身、人格、キャリアも何もかもすべて破壊しつくす。いずれ組織そのものも破壊へと導くだろうとみている。

 

だから、辞めた。

 

たちが悪いのは、彼らは自分たちをクリエィブだと思っているところだ。つける薬がない。

 

既存の枠組みは枠組みとして尊重しておきながら、それにとらわれずに新しいものを生み出すことと、邪魔だ、壊してしまえとでは、馬と鹿ぐらい差がある。

 

「枠組み」を破壊するといえばと思い出したのが、コロンブスの卵だ。

卵を立てろと言われて、卵の底をぐしゃりと割って立てたというあの逸話だ。

 

思いつきそうで思いつかなかったことをやってのけたという意味では「(卵を割らずに、という)枠組みにとらわれなかった」といえるのだろう。

 

卵を割ってしまったというのに、その意外性だけがもてはやされてしまった。

 

このコロンブスの卵理論で、世界は動いてきた。侵略、植民地支配、奴隷制度、戦争、環境破壊……いろいろな枠組みをひたすら破壊し続けてきた。

 

さんざん破壊しつくし、自分たちの住む環境が脅かされてきた今になって、やっと枠組みを破壊してきただけだったと人類は気付いた。

 

卵を割ることがクリエイティブで革新的だと考える時代は終わった。

 

卵を割らずに立てる方法を考える。その方法を思いつく人がこれからの時代をけん引していくのだろう。